解説:人権デュー・ディリジェンス
日本では人権デュー・ディリジェンスの義務化にはまだ至っていませんが、企業による人権尊重の必要性に対して国際的関心が高まっていることを背景に、日本でも、2020年(令和2年)10月に「『ビジネスと人権』に関する行動計画(2020-2025)」が策定されました。
同計画では、企業の「ビジネスと人権」に関する理解促進・意識向上を目標に、今後政府が取り組むべき施策や企業活動における人権デュー・ディリジェンスの導入及び促進への期待が表明されています。
また経済産業省は、企業における人権尊重の取組みを後押しするため、2022年(令和4年)3月、「サプライチェーンにおける人権尊重のためのガイドライン検討会」を立ち上げ、また同年9月には、「国連ビジネスと人権に関する指導原則」(UNGP)や「責任ある企業行動のためのOECDデュー・ディリジェンス・ガイダンス」を基礎として、企業に求められる人権デュー・デリジェンスの指針である「責任あるサプライチェーン等における人権尊重のためのガイドライン」が策定、公表されています。
このガイドラインに強制力はないものの、企業が人権尊重の責任を果たし、人権リスクを軽減させるため、すべての企業に人権デュー・ディリジェンスを求めています。
こうした国内の動向及び海外における人権デュー・デリジェンス法制化の進展を踏まえると、日本でも将来、人権デュー・デリジェンスの義務化が進むことが想定されます。
実際、日本国内でも企業の社会的責任(CSR)やサステナビリティへの関心が高まる他、人権に対する企業の責任も注目されてようになっており、機運は高まっていると言えます。
1.人権デュー・ディリジェンスとは
企業が事業活動を行う上で、人権を尊重する責任があることを前提に、企業がその責任を果たすべく、他者への人権侵害を回避し、人権への負の影響に対処すべく行う取り組みとそれに対する説明、及び取り組みの実効性の評価について情報開示を行っていく一連の行為を、「人権デュー・ディリジェンス」といいます。
2.人権とは
人権とは、誰もが生まれながらにして尊厳をもって扱われるべきであるという概念です。
元来、日本において「人権」は、同和問題や男女差別、障害者差別や薬害被害者差別といった「差別からの自由」を中心に語られてきました。
一方、人権デュー・ディリジェンスにおいて企業が尊重すべきとされている「人権」は、「差別からの自由」に限らず「気候変動による環境破壊の抑止」「社会保障を受ける権利」「プライバシーの権利」「安全な労働環境を享受する権利」「消費者の安全と知る権利」など多岐にわたり、非常に広範で幅広い分野において取り組むべきものとして考えられています。
誰もが平等に扱われ、生命と自由、そして幸福を追求する権利を有している、という「人権」の基本的概念は、人間が共存する中で生ずる不条理をどうすれば解消していけるのか、一人一人が人間らしく生きるにはどうすればいいのか、という命題に対し、近代哲学者たちが熟考を重ね築き上げたものです。
この基本的概念は、現在も、今後も変わることはないでしょう。
しかしながら、技術の発展に伴って、人間の活動はより広く、より大胆になってきました。
その結果、環境の破壊による気候変動、AI等の普及によるプライバシーや知的財産の侵害、グローバル化による他国労働者の搾取や製造過程の不透明化など、新たな人権侵害の態様が生まれ、その対象も拡大しています。
そのため、人権に包含される権利は、時代の進行とともにより幅広くなっており、企業はそれらの多岐にわたる権利の擁護にむけて、取り組みを加速させることが求められているのです。
3.なぜ企業に人権擁護が求められているのか
我々が日々の生活で利用する食品、生活用品はほぼすべて、企業が生産し、加工し、配送するものであり、我々が従事する労働は企業の事業活動の一環であるといえます。
つまり、我々の日常生活は企業の事業活動と密接に関わり、切っても切れない関係にあり、企業の事業活動によって人々の健康、生活環境、労働環境といった人権が侵害される可能性が非常に大きいと考えられます。
そこで、人権の擁護のためには、企業による人権侵害を抑止・救済することが不可欠であり、それゆえ、企業には人権を擁護する使命があるという考え(「ビジネスと人権」)が世界的に広まることになったのだといえます。
4.企業の人権侵害の態様
企業の人権侵害の例として一般的に想起されるのは、企業がその製品製造の過程において、劣悪な環境で労働者を働かせる事案です。
しかし現在において、企業の人権侵害行為は、企業が直接かかわる労働者の人権を侵害することにとどまりません。
企業は、材料調達から製造、販売に至るまでの一連の物流システムの中で、様々な国や企業、消費者等と直接・間接的に関わっており、これらの様々な国や企業、消費者等は、当該企業の事業活動とその物流システムを構成する不可欠な要素であるから、これらの国や企業、消費者等のいずれかが人権侵害に加担している場合、それが当該企業の人権侵害行為であると認識されるようになっています。
たとえば、
- 企業が人権侵害を行っている他の企業に対して投資・融資をしていたこと
- 材料の一部の調達過程において人権侵害行為が行われている可能性があることの開示を怠ったこと
- 企業の製品が販売先で人権侵害行為に利用されていたこと
- 企業の気候変動への対策が不十分であること など
当該企業が人権侵害行為を行っていたとされ、企業の製品不買運動や訴訟の提起、投資の撤退が行われるなど、企業が関与する可能性のある人権侵害行為は多岐にわたると考えられるに至っています。
そして、企業はこのような人権侵害行為に関与しないよう、人権デュー・ディリジェンスを行う必要があるとされているのです。
5.企業が人権擁護をすることのメリット
もっとも、企業が人権擁護を行うことは、個々人の人権の擁護というメリットだけでなく、企業にとっても事業活動に伴う人権侵害が企業にもたらすリスク(これを一般的に「人権リスク」という。)を軽減するというメリットがあリます。
このような企業の人権リスクは大別して、
- ①レピュテーションリスク
- ②法令違反・訴訟リスク
- ③財務リスク
- ④オペレーショナルリスク
に分けられます。
- ①レピュテーションリスク
- 企業の事業活動が人権侵害に該当する、企業の製品が人権侵害に加担している事実が発覚した場合、当該製品だけでなく、企業の製品全体を対象とする不買運動や、株価の下落、ブランドイメージの低下が生じることを指します。
- ②法令違反・訴訟リスク
- 企業の事業活動が個別の法令に反するとして、刑事罰や行政罰の対象となったり、輸入規制や経済制裁等を課されることに加えて、労働者や消費者、株主等による集団訴訟が提起されることを指す。制裁や訴訟の根拠は、企業の所在地の法令だけでなく、取引先や、材料調達、製品製造から販売までの一連の物流システムが経由する地の法令、国際機関の指導原則等の罰則を伴わない所謂ソフト・ローも含まれるなど多岐にわたります。
また、新興国における人権侵害行為が先進国の裁判所において争われるなど、訴訟の提起される場所も広範となる可能性があります。
- ③財務リスク
- 投資家は、企業活動の資本をもたらす重要な存在であるところ、現在、環境(Environment)社会(Social)ガバナンス(Governance)の3点を考慮したESG投資を行う流れが広がっており、2006年に国連総会において、ESG要素を投資判断に反映させるべきという責任投資原則が提唱されたことも相まって、企業の人権デュー・ディリジェンスの実施如何は、投資家の判断を左右する事項の一つとなりました。
企業活動の資本をもたらす投資家は、企業が上述した人権リスクを低下させるための人権デュー・ディリジェンスを行っていないことを理由に、当該企業を投資対象から除外したり、手持ちの株式の放出、資金の引き上げを行う可能性があります。
- ④オペレーショナルリスク
- 企業の人権への取組の姿勢によって、従業員の離職や操業停止が引き起こされ、事業活動が停止する可能性があります。
また、材料調達、製品製造から販売までの一連の物流システムのいずれかに人権侵害を行う国が関連していることを理由に、企業が当該国で行う事業活動を撤退することを余儀なくされ、一連の物流システムが破綻する可能性もあります。
それゆえ、企業の人権擁護への取組は、事業活動を左右することになるから、人権デュー・ディリジェンスの敷設・拡充は、企業にとって喫緊の課題となっているのです。
6.人権擁護の枠組み
人権デュー・ディリジェンスを行う上で参照すべき国際的な枠組みはどのようなものがあるのでしょうか。
人権擁護に向けては、国際機関等によりこれまでに様々な宣言や原則が策定されてきました。
このような国際的枠組みの代表的なものが次の5つです。
- ①世界人権宣言と国際人権規約
- ②国連グローバル・コンパクト
- ③ビジネスと人権に関する指導原則
- ④ILO中核的労働基準
- ⑤OECD多国籍企業行動指針
- ①世界人権宣言と国際人権規約
- 「すべての人民とすべての国が達成すべき共通の基準」とされ、基本的人権尊重の原則を定めた世界人権宣言を、国際法として成文化したものが国際人権規約であす(1966年採択)。
国際人権規約は、人権に関する諸条約の中で、最も包括的かつ基本的なものとして、今日においても人権擁護の枠組みの基軸として位置付けられています。
- ②国連グローバル・コンパクト
- 国連グローバル・コンパクトは、人権・労働・環境・腐敗防止の4分野について10の原則を提唱するものであり、各企業がこれに賛同し行動することで、社会の持続可能な成長が実現できるという目的のもと2000年に発足しました。
- ③ビジネスと人権に関する指導原則
- 国際人権規約が、国家の市民に対する人権蹂躙の歴史を反映し、国家との関係において人権尊重を求めているものであるのに対して、指導原則は、企業に対して人権尊重を求めるという、「ビジネスと人権」の考え方を提示したものとして大きな意義を有しています。
指導原則では、企業の人権尊重責任を、国内法令の遵守の上位概念として位置づけています。
- ④ILO中核的労働基準
- ILO中核的労働基準は、国際労働機関(ILO)が採択したもので、労働者の基本的権利の擁護のため、結社の自由・団体交渉権、強制労働の禁止、児童労働の禁止、差別の撤廃の4分野に関する8つの条約により構成されています。
日本は差別の撤廃に関する条約のうちの一つである「雇用及び職業についての差別待遇に関する条約」を批准していませんが、他国法令において当該条約が遵守すべきと定められている場合に、企業が当該法令の対象となる場合は当該条約の遵守を求められることになるため、当該条約を含め、ILO中核的労働基準を構成する条約は無視できないものとなっています。
- ⑤OECD多国籍企業行動指針
- OECD多国籍企業行動指針は、中小企業を含むすべての多国籍企業を対象として、企業が経済・環境・社会の進歩に貢献する一方で人権や環境に負の影響をもたらすことがあるから、それに対して責任ある企業行動をとることを求めるものです。
同指針は、多国籍企業に対してデュー・ディリジェンスの実施義務等を規定しており、同指針が提示するデュー・ディリジェンスの枠組みは上記指導原則と一致するものといえます。
7.日本における人権擁護の取り組み
日本においては、差別の撤廃や労働者の権利保護等について、個別の法令(男女雇用機会均等法、労働法、児童福祉法など)はあるものの、ビジネスと人権を直接的に実施するべく、企業の人権擁護責任を認め人権デュー・ディリジェンスを求めたり、企業の人権侵害に対する制裁を求める法令は制定されていません。
しかし、「ビジネスと人権」を重要視する国際的潮流をうけて、日本政府は行動指針やガイドラインの作成を急いでいます。
その結果、日本政府は「ビジネスと人権」の考え方を反映して、2016年に国別行動計画の策定、2021年にコーポレート・ガバナンス・コードの改正、2022年に人権デュー・ディリジェンス・ガイドラインの策定を行いました。
国際的な潮流をうけて、日本政府もこれから「ビジネスと人権」を反映する法令の制定、人権デュー・ディリジェンスの導入の促進の動きをさらに加速させていくと思われます。
そのため、ビジネスと人権の考え方を企業経営に反映させて、人権デュー・ディリジェンスを取り入れることは、これからの企業の運営に不可欠と考えられます。
上記のような人権に関する世界的枠組みや、以降詳述する各国の法令、日本国の策定するガイドライン等を踏まえた上で、企業の抱える人権リスクを見つけ出すこと、及び、企業の事業活動によって人権に対する負の影響の予防・対処を適切に行うには、法とビジネスについての知識とノウハウが必要です。
また、企業の材料調達から販売までの一連の物流システムは、企業や生産者等の間の契約により成立しているから、物流システムの一部において負の影響が生じることを予防したり、現実に負の影響が生じた場合の対処を行うには、当該契約条項に「ビジネスと人権」の考え方を反映させ、人権デュー・ディリジェンス実施条項を盛り込んだり、契約に基づく取引関係から離脱したりといった対応が求められます。
したがって、企業運営において「ビジネスと人権」の考え方を反映させ、人権デュー・ディリジェンスを実施するには、知識とノウハウを持った弁護士に依頼することをお勧めします。
人権リスク発現の具体的事例
レピュテーションリスク発現の事例
【製造工場での人権侵害の発覚により不買運動へ発展した事例】
2019年6月24日に、NHKのドキュメンタリー番組「ノーナレ」において、今治にある工場で働いているベトナム人技能実習生の劣悪な労働環境が報道され、企業を特定しようとする動きが広がり、当該工場で生産されているとされた今治タオルについて、X(旧Twitter)上で、「♯今治タオル不買」の呼びかけがなされるなど炎上した。
そもそも、今治タオルブランドは、タオル及び関連商品の製造・販売において豊富な経験と技術を有する「今治タオル工業組合」の組合員企業が製造した「今治タオル」(地域団体商標「今治タオル」※)商品のうち、本組合が独自に定めた品質基準に合格したタオル商品のみに付す商標のこと をいい、今治タオル工業組合には104社が加盟している。そして、今治タオル工業組合によると、当該104社の中に放送で取り上げられた会社はない。
しかしながら、今治タオルの生産においては、複数の下請け企業との分業体制が敷かれていることから、包装で取り上げられた会社が今治タオルの生産にかかわっていた可能性は否定できないとされる。
このような批判を鎮静化させるべく、今治タオル工業組合は、「当組合の社会的責任及び道義的責任があると考えており、この問題を非常に重く受け止めております」とのコメントを出すに至った。
【製造した製品が販売先で人権侵害に利用されていたことで非難を受けた事例】
1990年代、GEヘルスケアが製造・販売した超音波画像診断装置が、インドや中国で胎児の性別判断に用いられ、女児の人工中絶を助長しているとして、世界的な非難を浴びた。
GEヘルスケアは、数百万ドル規模ともいわれるインド国内の超音波機器市場で50%近くのシェアを占めている。
インドでは年間50万人の女児が中絶され、中国では年間1300万件の人工中絶のうち大半が女児であるとされるところ、GEヘルスケアは、自社の超音波画像診断装置が女児の人口中絶を助長するリスクを防止する策を講じていなかった、または、男児の出生を望む傾向を利用して同国内で超音波機器を積極的に販売しているとの批判がなされた。
このような動きを受けて、インド政府は超音波装置を胎児の性別判断に利用することを禁止し、クリニックや医師に機器使用の登録を義務化させ、医師が超音波装置を購入する際に、研修を受け、資格の取得を条件とすることとした。
中国政府は、性別判定を行った医師に対し、医師免許の剥奪と刑事責任を課す法改正を行った。
当のGEヘルスケアは、小型超音波装置の販売先を自主的に管理し、販売を緊急治療室や一般医に限定、購入者が資格保持者であることを確認するなどの対策を講じることとした。
訴訟リスク・賠償リスク発現の事例
【人権侵害を行っていた企業に対する投融資が問題となった事例】
オーストラリアの金融機関ANZ銀行が、カンボジアで農地を収奪し児童労働を行っている現地現地の製糖会社に融資をしていたことが、エクイタブル・カンボジアとインクルーシブ・ディベロップメント・インターナショナルというNGOにより告発されたことで、世界的な非難を浴びた。
金融機関は融資を終了したものの、被害者に対する救済措置を怠っているとして、再度批判を受け、オーストラリアのOECDナショナル・コンタクト・ポイントが実施した調停において、ANZは「人権に関する企業基準の効果的な運用を支援するために、結果の公表を含む苦情解決メカニズム」を構築することに合意した。
同時に、カンボジア農民が被った損害を修復するために資金を拠出することにも合意し、銀行は被害者に対する一定の補償を行うこととなった。
【製品表示の懈怠により訴訟提起がされた事例】
スイス食品大手ネスレは、製造・販売するキャットフード「ファンシーフィースト」の原材料に、奴隷労働を行っているとされるタイの食品会社ユニオン・フローズンプロダクツから仕入れた魚が含まれている可能性があることを開示しなかったとして、カリフォルニア州サプライチェーン法違反を根拠とする消費者訴訟を提起された(Barber v. Nestle USA, Inc.)。
請求は棄却されたが、同訴訟を契機にネスレは違法労働の撲滅に向けたアクションプランを策定するなど、対策を講じることを余儀なくされた。
加えて、当該訴訟を契機にネスレの製品の製造や材料調達に注目が集まり、主要チョコレートブランド「キットカット」の製造において、児童労働を使用し収穫されたカカオが含まれていることに対する批判が生じるなど、ネスレが被った損害は大きかった。